川崎宿とは|東海道川崎宿起立400周年記念サイト

東海道川崎宿とは

東海道川崎宿
東海道川崎宿

川崎宿とは

成り立ち

川崎宿は元和9(1623)年、品川・神奈川両宿の伝馬負担を軽減するために開設されました。新宿(しんしゅく)・砂子(いさご)の2町から始まり、その後、久根崎(くねざき)・小土呂(ことろ)町を加えた4つの村で構成されていました。
町立てにあたっては、久根崎から小土呂に至る自然堤防(海がつくった砂州)を利用して盛土がなされていますが、これは六郷・鶴見両河川の出水被害を抑えることが重視されたためです。

距離

江戸口土居(現在の六郷橋)から京口土居(現在の小川町)までの約1.5km。

本陣

兵庫(田中)本陣・・・新宿町、建坪231坪、門構・玄関付
惣左衛門(佐藤)本陣・・・砂子町、建坪181坪、門構・玄関付
惣兵衛本陣・・・砂子町、途中で廃止

旅籠(はたご)

ピーク時の旅籠の数は天保期に編集された「東海道宿村大概帳(とうかいどうしゅくそんだいがいちょう)」に記された72軒で、神奈川県下9宿の内3番目の旅籠数でした。
川崎宿で名高い旅籠だったのが「万年屋(まんねんや)」で、文久3年の「将軍上洛に付宿並書上」よると、当時川崎宿の旅籠の中で最大規模でした。ハリスが宿泊したことでも有名です。名物「奈良茶飯(ならちゃめし)」は『東海道中膝栗毛』の中で弥次さん喜多さんも食べたとされています。

参考文献:川崎市編集「川崎市史(通史編2近世)」平成6年(1994年)

東海道とは

東海道は、江戸時代に整備された五街道の一つです。
慶長6(1601)年正月、江戸幕府は東海道の駅制を定め、戦国期の宿駅を母体としつつ、改めて諸駅を設定しました。宿場の大多数はこのときに設置されたものと考えられます。その後、慶長7(1602)年に大津宿、同9(1604)年に戸塚宿、そして元和9(1623)年には川崎宿が追加されました。川崎宿成立後に成立した宿場もあるという説もありますが、川崎宿は53次の中でも最後の方に成立した宿場です。

コラム~東海道五十”七”次?!~
歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』などの影響で、東海道の宿場の数といえば日本橋から京都三条大橋までの五十三次が広く知られています。しかし、実際に幕府が整備したのは大坂までの街道であり、このことから京都から大坂までの4宿(伏見、淀、枚方、守口)を加え「東海道五十七次」と呼ぶ場合もあるのです。

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